『マイクロソフトは嫌いだ』と言うだけでなく、向かってこい」。マイクロソフト日本法人を設立した古川享氏は、"批評家"で終わりがちな理系学生に、そう呼びかける。理系の才能を高く評価するがゆえに、古川氏が伝えたいメッセージとは――。
若き日はアウトロー

IT業界のメインストリームに立つマイクロソフト。同社日本法人の初代代表取締役社長に就任した古川享氏(現・最高技術責任者)は、中学・高校時代、実はアウトローだった。
中学は都内の名門私立・麻布に入学。エスカレーターで高校に進んだが、「中学に入った後は、まじめに勉強するのはやめて、"社会勉強"ばっかりしていた」。朝までジャズを楽しみ、六本木の公園で仮眠、それから学校に向かう毎日だったとか。
高校入学は1970年。学生運動のピークを一線で迎えられなかった。「どうやってアイデンティティーを確立するかが問われた世代。学生運動には頼れなかった。哲学、数学、音楽、映画といった専門ごとの境界線が薄れていた。どれか一つを極めようとはせず、おもしろいことならなんでもやった」。
大学受験の志願先は、精神分析学を学べる大学に絞った。「ある人間関係の中に、特定の要因が持ち込まれると、どういうアクションが起きるのか。それを学びたかったんだ」。しかし、条件に適う大学は一橋、阪大など、ごく少数。狭き門となった。三浪の末に、精神分析で著名な岸田秀氏が教鞭をとっていた和光大学に進むことになる。
「エネルギーを注げたのは、最先端のものだけだった」と古川氏は当時を語る。浪人時代は予備校に通うふりをして、世に出回ったばかりのマイコンショップでアルバイトをしていたという。
「プログラミングは、精神分析と似ていると思った。どちらもある要素を組み込んだときに、どんな反応が起きるかをチェックする。すぐに結果が出てくる分、プログラミングの方が魅力的だった」。コンピュータには、自然とのめり込んでいった。
120万~180万円。当時、プログラミングができるコンピュータを調達するには、それほどの大金が必要だった。「アルバイト代では買えなかった。だけど、マイコンショップで注文を受けたコンピュータを自分で組み立てると、納品するまでの期間は自由に使えた。2日で組み立てて、1~2週間は自分で使っていたね」。
大学の研究室にあるコンピュータが、常に身の回りにあった。鉄道模型にも興味があったため、ハンダ付けは得意。次第に、故障したコンピュータの修理なども任されるようになった。
コンピュータ業界で生きていこう――。いつしか、そんな意思を持つようになった。
3週遅れを取り戻す

「3浪もして大学を卒業しても、同級生は既に一足先に商社や銀行に入っている。3周分の周回遅れを取り戻し、追い抜くためには、どうすればいいかっていう話になるわけだよ。日本では最先端のテクノロジーを学べない。包丁1本じゃないけど、ハンダごて1本をさらしに巻いてアメリカに渡れば、コンピュータ業界で成功するチャンスが生まれると思ったんだ」。
インターネットなどはもちろん普及していなかった。最新のテクノロジー情報が届くまで、かなりの時差が生じていた時代だ。ハードの価格差も著しく、日本で100万円を超えるコンピュータも、アメリカでは10万円ほどで用意できたという。
渡航費用はどうするか――。古川氏は、自身の持つコンピュータの知識を企業に売り込み、コンサルタント料として500万円ほどを用立ててもらうつもりだった。ところが、古川氏の計画に反対した人物がいる。マイコンショップのバイトを通じて知り合った西和彦氏だ。「日本に戻って10年、20年が経ち、億単位の仕事をするようになっても『お前には500万を投資したんだ』と一生言われるぞ」。西氏は後に、アスキーを創設。同社はマイクロソフト日本法人が設立されるまで、日本代理店を務めることになる。
「親は生きているか。死んだらいくらもらえるんだ? 30とか40になって、1000万もらってもしょうがないだろう。だったら今、500万もらえ」。古川氏は助言に従い、親から金を借りてアメリカに渡った。
渡航してからの3カ月、カリフォルニア州立大学ロサンゼルス校(CSULA)で英語を学ぶ傍ら、図書館に通いつめた。古川氏はここで、インターネットの前身となった南カリフォルニアの大学間ネットワーク、Cybernetと出会う。CSULAに居ながら、はるか離れたスタンフォードやUCLAにある論文を閲覧できた。最新のテクノロジーに、胸が震えた。
「ネットワークを介して人とつながれるのならば、わざわざブランドとしての大学に入り直す必要はなかった。同じ興味を持っている人間同士でつながり、コミュニケーションが取れるようになれば、それで十分なんだから」。
そんな折、アスキーを創設したばかりの西氏から、入社しないかと声がかかる。「大学4年間をまたむだに使うな。東京に戻ってきたら取締役にしてやるぞ」。口説かれた古川氏は、大学を中退してアスキー入り。その7年後には、マイクロソフト日本法人を立ち上げることになる。