月=地球の衛星の明るさ・色温度の平均値を算出し、その値を許容外で超えるシアン色が計測された場合のみ、通常のコースを大幅に迂回して基地(それとも家?)に帰還するロボットは作る事ができる。しかるにそれは演算=プログラムの産物であり、極めて私たちの“心”や“感情“の気まぐれとは似て非なるものだ。その動きの巧妙さに私たちの知能・感覚が混乱する事はありえるけれども。
本書の舞台は人間とロボットの“人間らしさ”がややもすると混同されるほどの近未来である。ロボット法によって、彼らの基本的生存権が守られる社会では、大量殺戮兵器になりうるロボットはそのコピーによる量産もまた禁じられ、彼らのオリジナル性は個性と人格に、破壊は個体の死として捉えられている。良かれ悪しかれ私たち(の人生)にごく近く、同様に得体の知れないモノが闊歩し、まかりとおっているのだ。
このような事を前提としてついに、人間とロボットは自他の実存を互いに実感、尊重できるのだろうか? これは同時に、来るべき時代に人類がそれまでとは違った倫理に直面しなくてはならなくなるという十分に予測可能な未来像を示しているのだが。
『アンドロイドは電気羊の夢をみるか?』と問いかけたのは、フィリップ・K・ディックだった。
いずれロボットがロボットを破壊する時代は来る。人間は言わずもがな人間を殺してきた。では人間をも殺せるロボットとはいかなる存在なのだろう? それが単なる兵器に止まって欲しくないのは私だけではあるまい。
ブレードランナーの話をする。レプリカントたちは人間を殺す事ができた。彼らはアシモフのロボット三原則を平然と破り、造物主たる人間に復讐する。ところが彼らのリーダーは、人間の生命のあまりの脆さを知り、ついには主人公のデッカードに生命への羨望を託して死んでいく。レプリたちは3年で死ぬようにプログラムされていたから。
本書に描かれる人間殺し“ブラウ1589”はカイン的罪を(ロンギヌスの?)槍によって死ぬまで裁かれる運命を受け入れている。本書もまた、よしんば生命の尊厳と人工生命の尊厳が平等であるか否か、そして人間にとって当たり前の持ち物である「心」や「自我」とはどこにどのような形で存在するのかというブレラン的テーマから逃れていないように思える。
『過去はどんなにつらくとも夢は夜開く』と歌ったのは藤圭子だったと思う。
本書に登場する最高水準のロボットたちは、経験を蓄積したメモリ・記憶の再構成を「夢」によって行う。これは人間と同様である。それはかつての大戦の経験からくる恐怖としか言いようのない悪夢や、仲間殺しの罪悪感を彼らにもたらしている。少なくとも「もう、戦場には、行きたくないから…」。
無論、私たち人間はクオリア(感覚質)という脳神経特有の「月がとっても青いから」的感性を持っている。それ故、その瀬戸際に近いロボットたちに向き合うのは、田鷲警視のようにあからさまに不快で、かつ不安になる。本書のロボットたちはアトムを始め、感性が生まれるまでに進化しつつある。不幸なことかもしれない、傷つかずに済む不完全性から外れつつあるからだ。
『こころ~やさし~ラララ科学の子』と詠ったのは、谷川俊太郎で、手塚はこの歌詞を大いに気に入ったという。
原作のアトムは2003年に生まれた。50年代の手塚ほどには、私たちも他ならぬ浦沢も無邪気ではいられないはずだ。
現代科学はロボットの量産以前に人間の量産を「クローン技術」によって可能にしつつあるからである。
クローン人間誕生への不安、嫌悪感は「自然の秩序を乱すことに対する恐怖感」「人間の尊厳に対する冒涜感」などと説明されがちだ。しかし、クローン人間に対する嫌悪感の根底にあるのは、むしろ「私が私であるとはどういうことか?」という“実存”が、将来、紛れも無いもう一人の自分(クローン)によって揺さぶられるかもしれないことに対する恐怖だろう。
通常の人間にとって自我は唯一無二のものである。無意識を含む自我の形成は他者との絶え間ない交流のなか、自分の意思で自律的に行動することによってなされる。むしろ現在の私たちの認識から言えば、ロボットは代替と量産が可能な同型個体、共通の人工知能のメモリによって「複数で共有する一つの自我」をもつモノであるべき存在だが、本書ではその事は巧妙に捨象されている。
おそらく、もともと自己(の生命)に対して無頓着なものは、他者の生命に対しても無頓着であろうからだ。人間という複数の他者に対し、“自ら”の実存を掛けてごく普通の生活を営もうとするロボットたちの姿こそ、彼らロボットなりの生存競争そのものといえる。だからこそ、私(やたぶん多くの読者)は、人間にもロボットにも愛されながら、守るべきものを前にして、否応なしに決闘に破れていくモンブラン、ノース二号、ブランドの潔さに涙できるのである。
あくまで現時点にとどまるものだが、あえて本書のスタンスに関する疑問を呈すれば、誰しも死に対する根源的な恐怖を持っており、心のどこかでその克服を願ってやまない。科学は人類のそうした願いに近い将来かなりのレベルで応えることだろう。それは同時に哲学、宗教、倫理、といった人類の死を乗り越える「英知の死」へのカウントダウンに他ならないのだが、ロボットこそ、そうした葛藤の全てに無縁な完全体に成り得る可能性があるとはいえまいか。
そして、逆説的な皮肉だが人間の作ったロボットが人間の能力を全て凌駕したとき、それを裁くものとして再び概念としての神が、造物主として目を覚ますことが渇望されるであろう。
感傷的になり、この作品を「生命への尊重」「現代科学文明への警鐘」と受け取るのはたやすい。しかしそれは手塚、浦沢、何より登場人・物たちに対する冒涜とすら思われる。造物主の名を冠しない冥府の王たるPLUTOこそ、人間とロボットの境界を理不尽に踏みにじることを赦された、怒れるたたり神なのではなかろうか。過去も現在も、確実に未来でも人間になること、ただ人間でいることはさして幸福ではない。
江田康和(空想科学ライター)
| 『プロ論。』B-ing編集部[編] | |
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徳間書店 1680円
カルロス・ゴーン、石橋貴明、中村修二……。各界著名人総勢50名ものインタビューが収録されている。その名も『プロ論。』。リクルート発行の就職情報誌『B-ing』の連載企画「巻頭インタビュー 21世紀を働く」の記事をまとめた一冊で、各人が仕事に対する価値観や哲学、自身の成功・失敗体験を述べている。本書の魅力は、様々な立場にいる50人それぞれの、多様な考え方に触れることができることだ。彼・彼女たちは一人ひとりが独自の考え方を持っている。読み進めていくと「あれ?この人が言っていることは、さっきの人が言っていることとちょっと矛盾するんじゃ!?」なんてこともあったりする。 人生の成功の方程式なんて一つではないから、50人いれば50通りの方程式が存在する。文字定数を使った一般式になんてできない。 人生の大先輩たちそれぞれの価値観を自分のものと比較して、自分と異なる考え方に刺激されたり、似た考え方に共感したりするのは面白い |
| 『ロジカル面接術(2006基本編)』 津田久資・下川美奈(共著) | |
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WAC 1470円
こんな自己PR文はどうだろう?「私は、責任感が強く好奇心にあふれています。中学生の時に生徒会の委員長を務め、責任感の強さを身につけました。その他、部活動では……」。 「普通のPR」と思った人も多いだろうが、このPRは面接官曰く「全然ダメ」。アピールの仕方が問題で、端的に言えば「具体性に乏しい」。面接官は「役職に就いていた事実」ではなく、「その役職を通して何にを経験し、何を得たか」――「責任感が強い」というセリフではなく、説得力あるエピソードが聞きたいのだ。本書は、自分をうまくアピールするための指南書。企業が求める新卒像を説き、自分をいかに面接官が欲しがる人材像に見せるかを教えてくれる。人はそれぞれ性格も資質も違うから、「こうしたら良い」という画一的なアピール方法はないのだが、効果的なアピール方法を探すプロセスには汎用性を持たせられる。書名の「ロジカル面接術」は、「なんとなく」理解できる曖昧さを省き、誰でも「活用できる汎用性」ゆえの「ロジカル」である。 |